渋沢栄一が新一万円札のモデルに選ばれたことで、その家族構成に注目が集まっています!
なんと、子どもは隠し子を含めると50人以上になるという噂も…!?
そこで今回は、渋沢栄一の家族構成と隠し子説、その奔放な人生への賛否の声をまとめました!
渋沢栄一(新一万円札モデル)の家族構成は嫁・兼子と子供は7人!
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- 1人目の妻・千代
- 2人目の妻・兼子
- 長女・渋沢歌子
- 次女・渋沢琴子
- 長男・渋沢篤二
- 次男・渋沢武之助
- 三男・渋沢正雄
- 四男・渋沢秀雄
- 三女・渋沢愛子
(亡くなった子どもは抜かして数えています)
詳しく見ていきましょう!
1人目の妻・千代
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千代は、栄一の従兄・尾高淳忠(おだかじゅんちゅう)の妹。
二女一男が誕生しますが、千代は1882年にコレラで亡くなります。
江戸時代から明治維新後まで24年間の結婚生活でした。
当時では珍しく恋愛結婚だったのでは
千代とは幼馴染で、離れて生活していても栄一はたくさん手紙を書いていたらしい
千代との離婚を怖がる手紙や、返事をくれないと浮気すると書かれた手紙が有名ですね
お見合いや政略結婚が当たり前のこの時代で、恋愛結婚だった可能性があるのはロマンチックですね!
2人目の妻・兼子
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兼子は、江戸一番の豪商・伊藤八兵衛(いとうはちべえ)の娘。
栄一は幼い頃、伊藤家の丁稚奉公をしていたこともあったそうです。
父が事業に失敗し没落したことで、芸妓として生きていた兼子を後妻として迎え入れました。
兼子との間には三男一女をもうけ、栄一が亡くなるまで添い遂げています。
後妻として兼子を迎え入れた家は、伊藤家が没落前に住んでいたお屋敷だったらしい。
そんなことある???
美人さんで評判だったようで。
前妻の子どもたちからは再婚を反対されたらしい
昔、自分のお屋敷で下働きしていた男に身請けされた兼子は、心中複雑だったかも?
長女・渋沢歌子
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1882年、歌子が19歳の時に穂積陳重(ほづみ のぶしげ)に嫁ぎます。
日本初の法学者。
東大法学部教授として法理学、英法を担当し、多数の立法にも関わりました。
歌子は「良妻賢母の鑑」とされた一方、著書もいくつか残しています。
父・栄一の死後わずか2か月の1932年1月に肺炎にて亡くなりました。
次女・渋沢琴子
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母・千代が12歳で亡くなった後は、姉・歌子夫妻に育てられます。
1888年、18歳の時に阪谷芳郎(さかたに よしろう)と結婚しました。
明治時代に大蔵大臣や東京市長を務めた人物。
ひ孫は総理大臣を務めた橋本龍太郎氏と結婚しています。
姉・歌子同様家庭婦人として子育てに奮闘した以外にも、病院の婦人会にて慈善活動も行っています。
孫の芳直さんは、東急ホテルの創業者だそうです!
長男・渋沢篤二
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篤二は実際には次男ですが、長男の市太郎は生まれて間もなく亡くなっているので、実質の長男とされています。
1909年には渋沢家が出資した「澁澤倉庫株式会社」の初代取締役会長に就任。
しかし、不倫スキャンダルで渋沢家から追い出され、取締役会長も解任されたそうです。
その後、栄一の没後の翌年1932年に亡くなりました。
渋沢篤二は謡曲、小唄、写真、記録映画、乗馬、日本画、狩猟、犬の飼育など多趣味だった。
渋沢篤二は廃嫡後は定職に就かずに「高等遊民」として趣味に没頭する日々を過ごしたが晩年は実業の世界に復帰していたようだ
ニートの神・渋沢篤二
偉大な父を持った苦悩があったようですが、ニートの神と揶揄されることもあるみたいですね。
次男・渋沢武之助
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1886年、後妻・兼子との間に生まれました。
渋沢家の跡取りは長男・篤二となったため、武之助は分家として渋沢家を支え、身分も平民扱いだったようです。
石川島飛行機製作所の所長や、十勝開墾・仏国通商・浅野セメントなど多数の会社の取締役もしていました。
第二次世界大戦では家を焼かれ、仮住まいのバラック小屋で亡くなったとのことで、ちょっとさみしい最期ですね。
三男・渋沢正雄
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1888年に生まれたのち、次男・武之助と同じく様々な会社の重役に付きますが、晩年は製鉄業に専念します。
何をやっても成功した親父だったが、鉄に限ってうまくいかなかった。
幸い親父の残した遺産で生活には困らない。
親父がやって失敗した製鉄業を、一生の仕事として国家に奉仕しようと考えた。
父・栄一が唯一失敗した製鉄業で国に貢献しようとしていたらしいです!
しかし、兄・武之助より数年も早い1942年に亡くなっています。
四男・渋沢秀雄
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秀雄は1892年に誕生後、兄たちとは異なり都市開発に携わります。
田園都市の開発に尽力し、田園調布など大規模な宅地開発を行いました。
戦後、GHQにより公職を追放されてからは、本の執筆や絵画など、趣味に没頭したそうです。
三女・渋沢愛子
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愛子は栄一のすすめで明石照男(あかし てるお)と結婚。
帝国銀行会長、澁澤倉庫取締役会長、貴族院議員を歴任。
戦後も清水建設相談役、日本経済団体連合会顧問など重役を務めました。
愛子に関するエピソードはあまり残っていない様子。
愛子の五男・武和さんは味の素の常務をされているそうです。
渋沢栄一(新一万円札モデル)の隠し子説も解説!
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- 愛人が正妻と同居していた
- 正式に認められている庶子は4人
- 50人以上の隠し子がいた可能性
順を追って詳しく見ていきましょう!
愛人が正妻と同居していた
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現代だったらブチギレ離婚案件だと思いますが、千代はくにを迎え入れその子どもも一緒に暮らしていたんだとか。
また、田中久尾(ひさお)という愛人も連れてきて一緒に暮らしていたことがあるそうです。
その他にも、鈴木かめという芸妓も別宅に住まわせていたんだとか…驚きですよね!
整理すると、このようになるみたい。
- くに(庶子2人)
- 田中久尾(子どもなし)
- 鈴木かめ(庶子1人)
- その他の愛人(庶子1人)
では、栄一の庶子4人について詳しく見ていきます!
正式に認められている庶子は4人
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- 文子(くにとの子ども)…父の前妻・千代の兄である尾高次郎と結婚
- 照子(くにとの子ども)…大川平三郎(富士製紙社長)と結婚
- 星野辰雄(愛人の子ども)…衆議院議員・星野錫の養子となり、立教大学教授になる
- 長谷川重三郎(かめとの子ども)…第一銀行頭取
男子は全員全員正解や財界の重要人物となり、女子も歴史上の重要人物と結婚したようです。
照子と大川平三郎の孫は、競馬の神様と言われる競馬評論家・大川慶次郎氏だそうですよ!
50人以上の隠し子がいた可能性
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というのも、栄一は財産の管理で今後揉めないように、正式な渋沢家の家族が誰なのか定めた「渋沢同族会」を発足しているんです。
その他に愛人や子どもがいなければこんな会を発足する必要がないので、隠し子が大勢いたと考えられているようですね。
渋沢同族会は、「同族の財産及年々の出入りを監督せしむる目的で、正式な渋沢の家族の資産管理をおこなっていた。
同族会の構成メンバーは「当代栄一君嫡出の子及びその家督相続人併にその配偶者に限り」「未成年者の配当分は宗家に属し男子は成年に達する時女子は婚嫁の時よりこれを分与する事とす」と定められた(『伝記資料』第二九巻)。
出典:島田昌和著作「渋沢栄一」より
栄一はヨーロッパ出向の際も現地の女性を日本へ誘ったり、幕末は新選組隊員の恋人に手を出して問題になったりしていたそう。
隠し子50人以上という噂もあながち嘘ではないかもしれませんね。
渋沢栄一(新一万円札モデル)の自由奔放な生活に賛否の声
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女性関係醜悪
これから日常で渋沢栄一の顔見るのきついなー
「英雄色を好む」で片付けられないレベルで当時から非難されていたほど。
こんな人日本の顔にしても大丈夫なの?
彼がいなければ日本は今先進国じゃなかったかもしれない。
なので女性関係は目をつぶることにしていますw
ヤンチャな青年が日本を変えたということで
当時と今では価値観も異なりますし、女性問題は仕方ないのかもしれませんね!
まとめ
この記事では、渋沢栄一(新一万円札モデル)の家族構成をまとめました!
栄一の正式な家族は、主にこんな感じ。
- 1人目の妻・千代
- 2人目の妻・兼子
- 長女・渋沢歌子
- 次女・渋沢琴子
- 長男・渋沢篤二
- 次男・渋沢武之助
- 三男・渋沢正雄
- 四男・渋沢秀雄
- 三女・渋沢愛子
また、愛人との子で栄一の子どもとして認められている庶子はこの4人です。
- 文子(くにとの子ども)
- 照子(くにとの子ども)
- 星野辰雄(愛人の子ども)
- 長谷川重三郎(かめとの子ども)
このほかにも、認められていない子どもが50人以上いるのではないかと言われているそう。
そんな奔放な渋沢栄一が新一万円札の顔になったことで、賛否の声が広がっていました。
新しい新一万円札に慣れていきましょうね!
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